1. 三つのルール 2. 野外彫刻、三つの活用法 3. 三つの「ウェア」 4. 文化を育む三つの「C」 5. 三つの期待 6. 三つの懸念 7. 三人の地域リーダー 8. 優れた企業、三つの条件 10. 三種の神器と三上の訓 11. 三人のトラバーユ 12. 深夜の国際電話 13. 選択的市民のすすめ 14. 明快少年出現! 15. ふるさと人材育成事業報告 16. 魅力あるまちづくりとは? 17. アメリカの常識、日本の非常識 18. 女性のバス運転手 19. たかがチップ されどチップ 20. ボーダレス時代の新市長に望むこと |
“シンポジウム”って何?“シンポジウム”って何だろう、と思う。昨日、友人に教えて貰った話では、“シンポジウム”の語源は、ギリシャ語で「参加者が酒でも飲みながら、全員がゴロッと横になって、言いたいことを言い合う場」らしい。 だとすれば、私たちが見聞きしている“シンポジウム”なるものは、何と生真面目で堅苦しいものではあるまいか。それに、いつも肩肘張って会議をしてみるものの、案外成果は得られないことが多い。自分が中心になって“シンポジウム”を運営したことも何回かあるが、うまく行って満足できたことなど一度もない。いつも「もう二度と、進行役などやりたくない」と思う。始まる前に考えていた理想的な展開ができずに、失敗したことばかりが悔やまれて、それが自分の責任だと思い込んでしまうのだ。 でも“シンポジウム”そのものは旨くはいかなくても、チョッピリ満足できる場合もある。“シンポジウム”を盛り上げ、楽しく終らせるのは、会場の参加者とのコミュニケーションが図られた時ではないかと思う。 自分の意見を開陳するだけ、人の意見を聴くだけなら“シンポジウム”は無意味である。異なった見方、意見が交錯し相互に影響し合い、お互いが学習できるものでなくてはつまらない。 そんな点から考えてみると、先日、私が参加した“シンポジウム”は少し反省点がありそうだ。 最も特徴的だったのは、参加者の年齢層が高かったことである。テーマが“まちづくり”であるのに、これからのまちづくりに一番関心を持って貰いたい筈の、町内の若い人達の顔が殆ど見られなかったことである。彼等はどこに行っていたのだろうか。下関や北九州、博多に行っていたのだろうか。 また、河内山柳井市長の基調講演の後だから止むを得ないが、会場内の人数が半減したのにも実はガッカリした。本来、基調講演は“シンポジウム”の議論のベース(基調)になる筈である。基調講演をされたご本人は直後に退席されるし、聴衆は減ってしまうともなれば、力が抜けたのは私だけではなかったろう。まさに“拍子抜け”であった。 そんなことなら、いっそのこと皆で酒やお茶でも飲みながら、“よなべ談義”でもしたらどうだろうか?年寄りばかりで若者の少ない町の現状を率直に語り合える場にしたらどうだろうか?ヒョットしたら面白い建設的なアイデアや意見が出て、「それは自分達がやってみよう」という様な声が出るかもしれないではないか。“高齢者による、高齢者のためのまちづくり”も面白かろう。 できもしない、やりもしない産業振興やまちづくりの理想論を延々と続けるよりもホンネで語り合うことが楽しいことかもしれない。 自分達の町はそこに住んでいる、いや、住み続けようと思っている人達でなくては、住み良い町にはできないのだから。 1996/11/26 |
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