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12/31 プロジェクトの目標金額が大幅に上回りました。
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「村野建築・想い出のカケラ」「オヤ、館長さんが知らないの?この建物の設計者は村野藤吾と言って、すごく有名な建築家なんですよー?」「ヒストリア宇部」がオープンした10年前には「村野藤吾」の名前さえも知らなかった私が村野藤吾に関心をもったキッカケは、この一言でした。 一般の利用者とは少し違った身なりをした人が時々来館されるのに気付いて、聞いて見ると、「東京からツアーで来ました。西日本の村野建築を見学するというテーマの観光旅行です。これから熊本にバスで向かいます。」とのこと。 改めて見回すと、入り口には、経済産業省が認定した「近代化産業遺産」、宇部市が指定した「景観重要建造物」というプレートも貼ってあるではありませんか。 そんなことが年間に何回も重なり、「アッ、この建物はそんな魅力のある建物なのか!」当初はそんな感想で、次第に「村野藤吾という建築家」に興味が湧きはじめました。 それから2、3年後、2013年から2年間、郷土の歴史を紐解いている作家堀雅昭さんにお願いして「異端の建築家・村野藤吾」という10回の講義シリーズを延べ20回開いてみましたが、想像以上に多く参加者もあり、私なりに手応えを感じました。 この講義を聞く中で、村野が労働者の働く「現場」に着目していた事に気づきましたが、それは、郷土唐津の先輩でもあり、ライバルでもあった辰野金吾に対抗した作家としての自負が隠されていたようにも感じました。 また、工業都市宇部、生産の現場である宇部に幾つもの“作品”が登場した背景のようなものも、門外漢ながら感じました。 そんなことを続けていくうちに、一方では、「宇部市役所がまとめるべき歴史があまりにも部分的で継続性がないこと」が、またまた気になりました。 実は、同じ様なこと、そう感じたのは、30年前に「トーク宇部21」という、当時は珍しかった“まちづくりの市民グループ”を結成して、“宇部のまちづくりに野外彫刻を活用しよう”と「彫刻マップ」や「彫刻スケールのまちづくり提案書」を作ったり、と活動を始めた頃にもあったことなのです。 学生時代に経済史を通じて、歴史・記録の重要性を学んだ若かった自分には極めて異質に感じられたことを思い出します。 “宇部のまちづくりのエンジン・シンクタンク”でもあるべき市役所に「野外彫刻作品に関する諸データ」が網羅されていない、存在していてもデータベース化されていないこと、に強い疑問を持ったことがあり、郷土・まちの歴史編纂に力が入っているとは言い難い、一面的すぎる、そう感じていました。 そして、次第に「村野藤吾の関わりと現存する建築物の価値」について、まずは、宇部市民に広く知ってもらう必要がある、と考え始めました。 そこで5年前、2015年に、建築に関心のある友人たちと「宇部の村野建築を考える会」を創り、「市民向けのバスツアー」を主催し、「渡邊翁記念会館・開館80周年記念事業」などを企画して、これらの活動を通じて、宇部市民の皆さんに、村野藤吾と宇部の深い繋がりを知って貰い、宇部のまちづくりの歴史に1ページを加えて貰おうと考えました。 村野作品の一つ、我が「ヒストリア宇部」は、昨年、「旧宇部銀行」移転・新築後80年を迎えたのですが、色々あってメモリアルなことができずに過ごしてしまったので、今年こそは、と『ヒストリア宇部オープン10周年記念市民祭』と併せて、東京や横浜から建築家を招聘して「村野建築フォーラム(仮称)」をプログラム化・計画していたのですが、「コロナ禍」のために、やむなく直前に断念しました。 が、ご縁とは不思議なもの、この記念イベントに参加して頂いた「小羽山お話しの会」の皆さんが『建物にも物語がある』を企画されたことで、また私にとっても思いがけず「村野藤吾に関する新たな記憶のカケラ」が一つ増えたのです。 “村野建築の聖地”の一つである宇部市に、「旧・宇部興産本館」の姿が失われたことは少し残念ですが、「村野藤吾さんの存在と彼の建築作品」が、工業都市宇部の生成発展過程で重要な役割を果たしたことを改めて知った次第です。 有り難うございました。 「コロナ禍」を経て宇部にも新しい日常が到来することが望まれる来年こそ、ぜひ「宇部の村野建築を考える会」を再開したく思っています。 2020年 11月 3日 「ヒストリア宇部」館長 タグボート株式会社 代表取締役 河野哲男 写真はクリックで拡大します。 |
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