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12/31 プロジェクトの目標金額が大幅に上回りました。
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「開館80周年記念事業」その5 「建築家村野藤吾と宇部市」(以下の文は、宇部市のホームページから引用しました。)http://www.city.ube.yamaguchi.jp/kyouyou/bunka/kanrenshisetsu/watanabeokinakinen/muranotougo.html 渡辺翁記念会館 は、建築家、村野藤吾(1891-1984年)抜きに語ることはできません。彼自身、記念会館は「私の出世作」と話しています。93歳で亡くなる直前まで、旺盛な創造力で建築の最前線にいた村野は、今でも多数の設計作品が全国に残り、高い評価を得ています。 村野が記念会館の設計を担当したきっかけは、そごう百貨店の鉄骨部門を請け負った松尾橋梁(株)の松尾社長が、記念事業委員会の一人、俵田明(沖ノ山炭鉱社長)に村野を推薦したことが始まりです。全面的に設計を任された村野は、生来の資質を存分に発揮し、近代建築史に名をとどめる会館を作りあげました。後年、村野は「本当に忘れ難い恩人です」と、俵田に感謝の言葉を述べています。 記念会館の縁で、村野設計の建造物が続々と宇部市に誕生します。昭和14年から昭和28年までの間に、宇部銀行(現旧宇部銀行館)、宇部窒素工業(現宇部興産ケミカル工場事務所)、宇部油化工業(現協和発酵)、宇部興産中央研究所、宇部興産事務所が完成しました。短い八幡製鉄の勤務期間から、身をもって苦しい工場生活を体験した村野は、「工場も美術建築である」との信念を持っていました。そこに人間がいる以上、美術建築であるべきと考えた村野の建築理念は、記念会館の細部の意匠にもよく現れています。 昭和54年竣工の宇部市文化会館に続き、昭和58年竣工の宇部興産ビルが、本市での最後の仕事になりました。他にも、宇部図書館、宇部商工会議所、宇部鉱業会館等、日の目を見なかった建設計画が、大阪の村野・森建築事務所に保管されています。これらの関係資料から、宇部市にことのほか愛着を感じた、村野の思いを伺い知ることができます。 (以下の写真パネルは、2016年に「宇部の村野建築を考える会」が制作したものです。) 写真はクリックで拡大します。 |
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