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12/31 プロジェクトの目標金額が大幅に上回りました。
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懐かしい「大阪勤務時代」私のホームページには、別のボックス「エッセイ」欄を設けています。この中には、「トーク宇部21」で活動していた時代に地元の新聞「ウベニチ(今は宇部時報と合併して「宇部日報」)」の『冬至夏至』という随筆欄に寄稿していた頃の200編余りの文章を載せていますが、一方、断続的に寄稿してきた「山口新聞」の『東流西流』欄への文章も載せようと今も整理していましたが、急に懐かしさが込み上げてきて、計8回では書き足りない大阪でお世話になった人達との交流について、もう一度振返って見たい、と思い立ちました。
山口県の県外事務所としては、現在「東京事務所」と「大阪事務所」があり、簡単にいえば、主として前者は「霞が関」とのパイプ、後者は「大きなマーケットとしての関西」とのパイプを拡充することが活動目的です。 「大阪事務所」には、戦前戦後を通じて日本経済の中心地の一つでもあった関西・大阪での拠点活動の使命があり、特に戦後は集団就職の時代から多くの県民の子弟が大阪をはじめとする関西での活動を始めたこともあって、経済、文化、教育、スポーツにわたる、文字通り山口県の益々の発展に欠くことのできないセンター機能・橋頭堡としての位置付けが保たれてきました。 さらに2003年に「新山口駅への改名」と「新幹線のぞみ停車実現」によって、観光誘致における役割も強まってきていました。
赴任にあたって私は、従来からの「県人会活動の支援」と「企業誘致活動」に加えて、「観光誘致・振興」の為に「公共交通機関や旅行会社との強いパイプづくり」を行いたい、そしてそれを名古屋圏域にまで広げたい、と考えていました。 限られた職員には既存の業務が山積している中、新しい取組みは“ヒマで時間のある管理職”がやるしかありません。 “新しい、変わったことが大好きな公務員”と自他共に認めていた私が、単身赴任を良いことに“嬉々として”仕事をやりはじめたのは当然といえば当然、自然といえば自然な成り行きでした。 “金帰月来”を繰返しながら、“公私混同”で大阪・名古屋とお付合いを始めました。 そんな愉しかった大阪勤務時代のこと、何回か分けて「エッセイ」欄に“後書き”をしてみたいと思います。 写真はクリックで拡大します。 |
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